2021年3月、日本経済団体連合会(通称、経団連)に、史上初めて女性の副会長が誕生しました。
その人物とは、株式会社ディー・エヌ・エー(以下、本稿では『DeNA』)の南場智子氏です。
経団連の会長・副会長といえば、日本の大企業のなかでもとりわけ有名な企業の経営者の名前が並んでいます。
会長の住友化学株式会社・十倉氏をはじめ、日本の誰でも知っているような有名企業の幹部ばかりです。
しかし、日本を代表する企業にまでDeNAを押し上げた南場氏ですが、会社員時代、ひいてはそれ以前から、さまざまな壁や挫折を乗り越えてきました。
今回は、DeNAの創業者であり現在では会長を務める南場氏の経歴について紹介します。
厳しい父親の影響と自由を求める気持ち
南場氏は、新潟県の出身で、大学進学を機に上京するまでは地元の新潟で過ごしました。
父親がとても厳しい方で、門限は18時、「父親が許可するかどうか判断基準」という環境で育った南場氏。
故に、大学進学の際には「何とか実家を出て自由を得たい」という思いで、東京への大学進学を希望します。
「女性はわざわざ実家を出てまで大学に行く必要はない」という父親とケンカになりつつも、「女子大ならばどうですか?」と、母親の機転を効かせた提案から、津田塾大学への進学を認められます。
学生時代になっても、奨学金での短期留学に行く際に、わざわざ大学に乗り込んでくるほどの父親の反対があったそうですが、その時に対応した大学教授の説得によって、留学が認められることになります。
厳しい親の影響もありつつも、留学を経験するなど、とても活動的な子供時代を過ごした南場氏。
帰国後、同級生より遅れての就職活動のなか、先輩の誘いをきっかけにマッキンゼーへの入社が決まります。留学先に招いて一緒に旅行ができるほど、学生時代には父親に昔ほどの厳しさはなかったとはいえ、
「またしても父親に反対されるのではないか」
「しかも自分でもよくわかっていないコンサルティング業界」
と不安に思った南場氏。
しかし、いざ父親に話してみると、意外な一言が返ってきます。
「大前研一で有名なマッキンゼーか。おめでとう!」
マッキンゼーを辞めたくて行ったMBA
晴れてマッキンゼーに入社した南場氏。
しかし、想像以上の仕事のタフさに、2年経って、職場を離れたいがためにMBA取得のための留学をします。
そのまま海外で転職先を見つけようとしますが、母親の病気の影響で結局帰国。
帰国後、マッキンゼーに戻って1つ目の案件でも、なかなか仕事がうまく進められません。
いよいよ転職しようと決めてはじめた転職活動のさなか、お世話になったかつての上司からの「案件に参加してほしい」との依頼が届きます。
「転職先は決まっても、お世話になった上司のお願いは断れない」と、案件を受けた南場氏ですが、「もう辞める身だから」と開き直って臨んだのが功を奏し、大きな案件を成功させます。
コンサルティングの仕事の面白さを体感した南場氏は、結局そのままマッキンゼーに残り、独立までの9年間、コンサルタントとして大活躍することになります。
最後の案件がなければ、DeNAは誕生していなかったと思うと、非常に興味深いと感じます。
「自分でやってみては」の一言で起業を決意
南場氏は、1999年、36歳の時にクライアントにポロッと言われた一言で起業することを決意します。
仕事で成果を出せるようになってからはコンサルタントとして大活躍し、出世もしていましたが、どこか「自分でもやってみたい」という気持ちも持っていたところ、クライアントの何気ない一言でうちに秘めた熱意が呼び起こされたという南場氏。
そこからDeNAの立ち上げを一気に進めていきます。
コンサルタントとしての成功経験があるとはいえ、10年以上在籍した会社を辞めて起業を決断できるのは並大抵のことではありません。ただ、それまでの経験から「努力がどこかで結果になる」という自信があり、南場氏は決断できていました。
成功ばかりではない、けれどもうまくいくという価値観
今回は、起業するまでの南場氏の経歴について紹介しました。
今のDeNAでの成功ばかりがクローズアップされやすいですが、起業するまでにもさまざまな挫折や成功を経験して乗り越えてきたことが分かります。
次回以降は、起業後の経歴を紹介していきます。