森岡毅さんがP&G時代に築いた圧倒的な経験値

前回はマーケティングのプロである森岡毅さんの著書などからキャリア戦略について書いていきました。

では森岡毅さん自身はどんなキャリアを積んできたのかを中心に今回は第一弾としてP&G時代について書いていこうと思います。

「ブラックジャイアン」と呼ばれた幼少時代

森岡毅さんは1972年10月12日に兵庫県伊丹市で生まれます。3人兄弟の次男で、
小学校のときには強引な性格から「ブラックジャイアン」と呼ばれていたそうです。当時はやんちゃで、自分のやりたいことは絶対やる子供だったと話されています。
その後、兵庫県立伊丹高等学校を卒業後、神戸大学経営学部へ。

P&Gへの入社

1996年に神戸大学を卒業後、P&Gに入社します。
自分の一度しかない人生を多くの人の力を束ねて大きな事業ができるような人間になれば痛快だろうという思いだ。その状態を最も体現するする立場として「経営者になりたい」。「経営者になるためのスキルと経験を積むこと」というキャリアの目的のもとに入社します。
また、P&Gは英語で仕事をしていました。当時、英語が苦手だった森岡毅さんは英語は勉強できるようになるなという思いも入社のきっかけだったようです。

死ぬほど働くことで気付いた自分のスタイル

マーケティング本部に入社して、定量データの分析は得意でしたが、女性に好まれるかわいいパッケージの開発やキャッチコピーを考えるといったところには苦手意識がありありました。当然のように、成果になっていない部分を先輩方から指導を受けることも多かったそうです。

当時の上司が朝7時から働き始めて終電で帰る生活を行い、土日でも仕事の電話がかかってくるのでそれに合わせて仕事をしていたところ、徐々に睡眠も浅くなったり、電話にでることができなくなったりという状態になりました。

そこで、上司に断腸の思いで、仕事とプライベートは分けたいということを相談したところ、上司からは自分のスタイルは大事だよねという拍子抜けの反応が返ってきたそうです。
その後、定時で帰ることを目標に、仕事の段取りをしっかり考え、自分ひとりでなくチーム全体の段取りまで考えて仕事をするように変えていきました。

そんな一件があったため、森岡家にはなかなか携帯電話が普及しませんでした。

大事なのは結果を出すこと

27歳のときに同期の中で最速でブランドマネージャーに昇進。
最初に担当になったのがフィジークというヘアケアブランドでした。
もともと1,000円以下のドラッグストアで売っているような商品が得意であったP&Gで、1,980円という価格設定のものをドラッグストアなどで大量に売れるようにするという難題にあたります。
会社のトップ以外は誰もうまくいくと思っておらず、森岡毅さんが成功すると思っているか当時の上司に問いただしたところ、早く出して、早く死ねと返されたそうです。

自分が信じていないもののために頑張るという理不尽はサラリーマンである以上常に存在しています。この時に情熱をもって仕事ができる状態にしたいという思いが現在の刀の原型になっているそうです。

そして、森岡毅さんは結果を出すことが何よりも大事ということに気付きました。
そのため、誰に嫌われようが、罵詈雑言を並べられようが、結果は出す人といわれるようになりたいと思うようになったそうです。

迷ったときは厳しい方を選ぶ

フィジークの次の案件で結果を出し、評価を挽回しました。ヴィダルサスーンなどにも関わり、2004年P&Gの本拠地アメリカへ。
北米でのパンテーンのブランドマネージャーに就任しました。パンテーンはP&Gの屋台骨の一つで、パンテーンのブランドマネージャーというのは、アメリカ人のマーケターにとっては就きたいポストでした。そこに、急遽現れた日本人ということで、目の敵にされていたようです。

具体的には、大きな会議で試すような質問をされるといった、品定めされることもありました。しかし、問題は議事録がまわってこない、役員プレゼン用の使用にセクシー写真が差し替えられるといった、あきらかに仕事の妨害をすることも行われていたようです。

P&Gの北米での最大顧客であるウォールマートでの商談に行き、自分の伝えたいビジネスを伸ばすための戦略を精一杯プレゼンし上機嫌で帰りました。しかし、翌日に、セールス部門のえらい人から呼び出され、予定時間よりプレゼン時間が伸びて他の議題を離せなかったことや急な方針転換のように先方に聞こえて混乱させていると怒気を爆発させながら言われたそうです。そして、お前がいる意味はない、お荷物だから次回からの顧客との会議には来るなと言われました。

仕事の妨害をされるような環境の中で、P&Gじゃなくても働けるし活躍はできるだろうということも頭の中をよぎりました。最終的にはここで逃げたら未来延々と逃げた記憶が自分につきまとう。それは嫌だという思いから、セールス部門のえらい人の部屋に翌日むかい、はっきりとブランドマネージャーとしての使命だから顧客との会議には出続けること。自分の話した戦略は売り上げに絶対貢献できること。自分は結果を出すということを昨日の向こうの怒気をこえる声で伝えました。

毎日会社に行きたくないと思うときもありながらも、
「必ず結果を出す、必ず結果は出せる!」と毎日鏡を見ながら自分に暗示をかけていたそうです。

戦略がはまり結果を出すにつれて、ついてくる人も多くなり、渡米して2年で昇進も果たしました。
この時の経験からも、迷ったときは厳しい方を選ぶようにしているそうです。

当時のセールス部門のえらい人からは、アメリカから日本に戻るときにメッセージをもらい、日本に帰っても必ずまた戻ってこい。今度は本当に大歓迎だと書いてあったそうです。

圧倒的な経験値が次のオファーにつながる

P&Gにいる14年の中でこれだけの経験を積みながら結果にしているからこそ今のキャリアにつながっているなと思います。
次回は、森岡毅さんがUSJを再建した時の話を書いていこうと思います。

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