家入一真さんの経験から考えるパーティを組む仲間や友人

前回は、家入一真さんの株式会社paperboy&co.(現GMOペパボ)起業時について書きました。

今回は家入一真さんの飲食店経営からCAMPFIRE立ち上げ経験に基づいて、大事にすべき仲間について考えてみました。

安心して仕事を任せられる仲間

家入一真さんのご両親が営んでいた喫茶店の居心地がよかったこともあり、いつかは自分でカフェをやってみたいという想いは抱いていました。

2007年にたまたま株式会社paperboy&co.(ペパボ)が入っていたセルリアンタワー付近の物件を見つけた所から話がスタート。
当時、ペパボには社食がなかったこともあり、ペパボの社員のための社食や憩いの場になればという想いだったそうです。飲食店を事業といこうとは考えておらず、この店に良いアイディアは全部注ぎ込むくらいの気持ちで、高級なオーブンなども導入を即決していました。
2008年12月に最年少でJASDAQ上場したその年の5月にカフェ『HI.SCORE Kitchen(ハイスコアキッチン)』をオープン。

上場準備と並行して違う世界に足を踏みだしたいという野心が芽生えていたようです。
上場準備チームを率いていた佐藤健太郎さん(現GMOペパボ代表取締役社長)になら安心して任せられると思い、上場した翌月には代表取締役社長の交代を決定しました。

『ハイスコアキッチン』の立ち上げをきっかけに、ファッション、デザイン、インテリアといった華やかな業界の人と交流を深めるようになる中で、飲食店の事業化を決意しました。

立場によらずしっかり忠告してくれる仲間

「店舗を増やしたい」という話を色んなところでしていたこともあり、空き物件の情報が入ってくるようになった。2009年9月には『iri』を代々木上原に、2009年10月には『ie』を中目黒にオープンと立て続けに店舗を増やしていきました。
社名もパーティ好きということとドラゴンクエスト(ドラクエ)みたいにパーティを組むというという想いからパーティカンパニーに決定。

ペパボ上場の際に、ある程度の株を手放してできた数億円の資金が個人としてあり、パーティカンパニーの資金も足りなくなるとそこから補填ということを行っていました。
また、数百万円~数千万円単位で色んな会社に出資するという今でいうエンジェル投資家としての活動も。
このころから渋谷、六本木、西麻布とディープな所に飲みに行く機会も増えていったようです。

そのころ会社の業績を一番理解している秘書をしていた方からは、「新しい店舗をだすべきではない」、「スタッフの人件費が高すぎる」など忠告を受けていたようです。

忠告を受けながらも、IT畑のやつが道楽でやっていると思われることが嫌で、本腰を入れている事は店舗数が増えれば立派な企業体として認知されるはずという想いで飲食店の買収なども考えるようになりました。
都内の3店舗を事業譲受し、ハイスコアキッチンオープンから約2年で6店舗になり、2010年4月に株式会社パーティカンパニーを設立しました。その後も2010年6月に『宇田川コロニー』、7月に『ON THE CORNER(オンザコーナー)』を立て続けにオープン。

『ie』では土地代の高さもあって、毎月500万円の赤字が出ていました。経理担当者からも「これ以上、お店は増やさないことが絶対に必要」と忠告を受けたにも関わらず、期間限定で海の家『The Beach Cafe』を神奈川県の七里ヶ浜にオープン。

海の家は簡単にたためるように安く作ることが基本の海の家も施工費1,500万円という破格の金額をかけ、想定利益2,000万円に対して、実際の利益は180万円という大赤字の結果でした。
経理担当者は赤字を埋めるために海の家をする際には「もう、知りません」と言いながらも奔走してくれていたようです。

お金と共に離れていく友達

6月にオープンした『宇田川コロニー』は3ヶ月で閉店。『ie』も閉店を決定。
さらには人件費の削減として給料カットの提案をスタッフ1人1人と面談をすることに、結局は受け入れてもらず多くのスタッフを解雇する状態にまで追い込まれます。

飲食店をはじめ六本木で毎晩300万円くらいを飲み代として使っていたころには周りにたくさんいた”友達”いました。その中には「なんか一緒にやりましょう」といいながら結局はうまく丸め込んでお金だけ出させるような人も多くいたようです。
そして、お金が無くなると「もう終わっている」や「あいつと一緒にいるとろくなことがない」という話を耳にするようになり、それを言っているのが良く飲み歩いていた”友達”だったこともあり気持ち的にもだいぶ追い込まれて行ったようです。

お金がない状態でも一緒に仕事をしたいといってくれる仲間

そんな中、2010年の年末から開発を始めたのがクラウドファンディングのプラットフォームでした。
ウェブで田んぼを購入するとその田んぼから取れるお米が届く、『農力村』というサービスを運営していたのがCAMPFIREの共同創業者である石田光平さんでした。
2008年のペパボにいた時代に家入一真さんが『農力村』のコンセプトを気に入りブログや雑誌で紹介をしていたところブログのコメント経由で連絡があり、石田光平さんと一度会食をしていました。

石田光平さんが勤める会社の中で『農力村』のサービスを独立させるか、売却するかという動きの中で家入一真さんの名前が挙がったことで再開。
石田光平さんから一緒にやりたいサービスがあると言われたのが、現在のクラウドファンディングとして認知されているサービスでした。当時2009年にアメリカで『Kickstarter(キックスターター)』というサービスが注目を集めていましたが、日本には有名なプラットフォームはありませんでした。
個人のクリエイターを応援できることに魅力を感じて一緒にやりたいと思っていたようです。

しかし、自己資産はほとんど底をついており、今お金がないことを伝えました。
その状態を伝えたうえでも、前職を退職して2010年の12月にはフリーになって一緒にサービスを立ち上げようと動き出していました。

ウェブサービスを見て、プログラムを書いてのネット漬けの日々を送り2011年の1月には株式会社ハイパーインターネッツ(現CAMPFIRE)を設立し3月にサービス名を『CAMPFIRE』にサービス名を決定。

ユーザーから持ち込まれたプロジェクトに火をつけていく。
そうすると、その周りに集まった人達が踊りだす。
火の勢いが増えるにつれて人の輪がどんどん大きくなっていく。

家入一真(2015) 我が逃走

という思いを込めてサービス名を命名しました。
そして、6月からサービスを開始しました。

あなたはどんな仲間とパーティを組みたいですか?

2008年12月にペパボが最年少でJASDAQ上場した翌年である2009年から2011年にCAMPFIREがスタートするまでについて今回は記載してきました。
2年半の間にこれだけの浮き沈みのある経験をされている家入一真さんのタフさはなかなかマネできないなと思いました。

そして、どんな人と一緒に仕事をするかで、人は良くも悪くも変わるなと思いました。
困難な時にこそ、本当の仲間が誰なのかが分かる機会かもしれません。

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