山田進太郎さんがつくりたかったグローバルなサービス(前編)

今回は、メルカリの創業者である山田進太郎さんです。
実はメルカリ創業以前にも会社を立ち上げている連続起業家(シリアルアントレプレナー)であることはご存知だったでしょうか。
今回は時にメルカリ創業以前の話について書いていきます。

大学生活でのウェブサービスとの出会い

山田進太郎さんは1977年9月21日に愛知県瀬戸市で生まれ、父親は弁護士、母親は税理士の資格持ちという家庭で育ちます。

両親からは何かを強制されたことはなく、習い事や受験についても選択肢を提示されたうえで、実際にやるかやらないかは山田進太郎さん自身が決めたようです。

中学・高校は私立の東海中学校・高等学校へ入学。東海中学校・高等学校からは、令和の虎CHANNELの岩井良明さんや現在のアシックスの社長である広田康人さんや東京オリンピックでアーチェリー銅メダリストの武藤弘樹さんなど著名人も多く輩出しています。

大学は上京して早稲田大学に入学しています。
1997年に『早稲田リンクス』に加わり3代目の幹事長を務める。
元々は一人で本や映画を楽しむことの方が好きだったようですが、サークルを通じて誰かと一緒に何かを成し遂げることの楽しさに目覚めたそうです。

早稲田リンクスは元々日本最大の学園祭と呼ばれた早稲田祭の開催が1997年委中止になった中一般の学生の声を発信するために作られたサークルで、当時普及の兆しがあったインターネットによって情報発信を行っていました。
このような経緯からメンバーは様々なひとがいて、悠々とのんびりしたサークルだったそうです。

山田進太郎さんが幹事長になる際は、積極的に手を挙げたというよりも「じゃ、進太郎でいいか」という感じで他に適任者がいないからやむにやまれず問う感じで決まったようです。

山田進太郎さんが幹事になってからは、悠々とした雰囲気から一変してウェブサイトの月間訪問者数の目標を定め、企画や会計、コンテンツの更新など会社のように一人一人に役割を明確にしていきました。

これにより、訪問者は当初の目標を上回る結果になりましたが、山田進太郎さんのやり方についていけずに下級生が去っていくこともあったようです。
当時、山田進太郎さんはパソコン普及により時代の寵児になったことと、急速な拡大路線をとったことへの皮肉から「早稲田のビル・ゲイツ」と呼ばれていました。

大学時代には『映画生活』というウェブサイトも立ち上げました。
試写会のプレゼントに申し込んだところ、当時は申し込む人も少なくタダで映画鑑賞できたことをきっかけに、試写会プレゼントの情報共有サイトがあれば便利と思い作ったそうです。

収益になるサービスを創れずに苦労したウノウ時代

サークルにてウェブサイトを作っていた経験から、当時はまだ20人程度だった楽天でインターンとして楽天オークションの立ち上げに携わります。

内定ももらっていましたが入社直前に辞退し、母校の教授が立ち上げたNPOを手伝いながらフリーのエンジニアとしてウェブサイトの製作を請け負って生活費を稼いでいました。当時設立したばかりの『チームラボ』ともよく一緒に仕事をしていたようです。

請け負う仕事が大きくなるにつれて、法人格が必要となり2001年に設立したのが『ウノウ』でした。父親が弁護士、母親が税理士だったため法人登記も比較的容易にできました。

ウノウとしては交流サイトの機能を持った写真共有サイト『フォト蔵』や先述した『映画生活』、迷惑メール対策ソフト『クイックPOPFile』や検索ツールバー『ウノウサーチ』、ブラウザで対戦できるゲームサイト『プラッシュ』など様々なサービスを開始するが、いずれも短命に終わります。

ベンチャーキャピタルから3億円の資金を数回に分けて調達したが、それでも収益化する事業を作れずにいました。

当時を山田進太郎さんは「飛行機がバラバラになって落ちそうになるなか、部品を組みつけて墜落を防ぐような心境だった」と話しています。

自身を失いかけているときに、ウノウに在籍するエンジニアを目的とした買収話の持ちかけもあり、いっそ会社を売ってしまったら楽になるかもしれないという想いもありながら外部から開発を請け負う受託ビジネスでなんとか乗り切っていました。

世界で使われるサービスを目指してジンガに譲渡

携帯電話市場が拡大していく中で、携帯電話向けに本格的に取り組む必要を感じ開発したのが『まちつく!』でした。
2009年にミクシィの携帯電話版のプラットフォームを活用したことも追い風となり、一年足らずで300万人のユーザーを獲得するまでに成長した。

ミクシィに先駆けてSNSのオープン化をFacebookが2007年におこない、ウノウと同様に『ファームビル』がヒットしたジンガもFacebookへの依存を分散させるため提携や買収先を日本で探していた。

世界で使われるインターネットサービスを創ることに買収をされれば近づくが独立性は失われるという葛藤もありながら2010年8月に株式会社ウノウをジンガに譲渡しました。

その後、ジンガ内で意見が通りにくくなったこともあり、退社を決意しました。退職にまつわる膨大な手続きを終え2012年1月に退社。
世界で使われるインターネットサービスを創ることを目指して買収に応じたが、達成できないのは残念と当時ブログに記載していました。

世界一周と再起動

退社するとアメリカ、モロッコ、スペイン、フランスと渡り3ヶ月で全行程の半分を終えて2012年4月に日本に一時帰国。2012年7月にトルコから再開し、イギリス、ドイツ、フランス、ヨルダン、アフリカ、インド、タイなど5大陸23ヶ国の旅行を10月に終えた。

パレスチナのベツレヘムやポーランドのアウシュビッツ強制収容所に足を運ぶ中で、自分が世界一周できるのも日本という豊かな国に生まれたからと痛感し、どこかに生まれたかによっては能力ややる気がどれだけあっても外国に行くことすら叶わない人がいると感じたそうです。
山田進太郎さんは地球や人類に対して少しでも役に立ちたいと強く思うようになりました。

各地を周っていろいろなものをインプットする中で、アウトプットすることが少なかったこともあり、創作意欲も徐々に湧いてきたそうです。

経験を糧に

山田進太郎さんは今やメルカリで有名になりましたが、最初からすべてが順風満帆というよりはウノウ時代はどちらかというと困難な経験もだいぶされていることを知り衝撃でした。
失敗の経験もあるからこそ、今のメルカリがあるのかもしれません。

次回はやっとメルカリの創業時の話を書いていこうと思います。

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